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第3回憲法学特殊講義

5.小泉首相靖国神社参拝訴訟福岡地裁判決を読む
 本章では、これまで見てきた靖国神社の沿革や日本国憲法にいう「政教分離規定」の意味するもの、過去の代表的な政教分離訴訟判例を踏まえて、本題である「小泉首相靖国神社参拝訴訟福岡地裁判決」を読むことにする。
(1)違憲判断の概要
 まず、憲法の政教分離規定について、これは旧憲法下において信教の自由が制限されていたこと、国家と神道が結びつき事実上の国教としての地位が与えられ、神道に対する信仰が強制されたり、一部の宗教団体が迫害されたりしたことの反省として、信教の自由を保障するために設けられたものである。具体的には、憲法20条3項が禁止している「宗教的活動」とは、その行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉になるような行為をさす。そしてその判断は、当該行為の外形的側面にとらわれることなく、行為の行なわれる場所や一般人の宗教的評価、行為者の意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、行為が一般人に与える効果や影響などの諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に行なわれなければならない。
 次に、問題となる本件参拝であるが、(1)一礼して祭神に対する畏敬崇拝の心情を示すことにより行なわれた行為であるから、戦没者の追悼を目的とするものであっても宗教とのかかわり合いがあることは否定できないこと、(2)一般人の意識において、本件参拝を単に戦没者の追悼という行事と評価しているとはいえないこと、(3)憲法の政教分離規定は国家と宗教が結びついて弊害が生じたことへの反省の観点から設けられたものであること、以上から、神道の宗教的意義を否定するのは相当でない。
 さらに、靖国神社の沿革や性格、合祀の対象からすると、戦没者の追悼を行なう場所として靖国神社は必ずしも適切な場所ではなく、また国の機関としての戦没者の追悼は靖国神社参拝以外によってもなし得ることからすると、そこへの参拝は本人の言動からも考えて、単なる社会的儀礼ではなく、自己の信念や政治的意図に基づくものと言える。
 そして、継続的に参拝する意思に基づいて参拝したこと、参拝は当然である旨述べていること、本件参拝直後には前年比2倍の人々が訪れ、閉門時間が延長されたことからすれば、本件参拝によって靖国神社を援助、助長、促進したと言える。
 以上の諸事情を考慮し社会通念に従って客観的に判断すると、本件参拝は宗教とのかかわり合いを持つものであり、その行為が一般人から宗教的意義を持つものととらえられ、憲法上の問題のありうることを承知しつつされたものであって、その効果は、神道の協議を広める宗教施設である靖国神社を援助、助長、促進すると言うべきものであるから、憲法の禁止する「宗教的活動」に当たる。
(2)違憲判断の検討
 以下、この判断の内容を検討する。
前提として、判決は憲法20条3項が禁止する「宗教的活動」を判断する基準に「目的効果基準」を採用している。この基準は昭和52年7月の津地鎮祭訴訟で示され、昭和63年6月の殉職自衛官合祀拒否訴訟で確立された、政教分離規定解釈する基準である。この基準には一部の学者からの批判はあるものの、既に最高裁で確立され、また下級審においても確立されつつあるので、本件参拝を判断するために採用したのは妥当であると思われる。
 しかしながら、本件参拝を違憲とした判断の内容には疑問を感じざるを得ない。
 なぜなら、そもそも目的効果基準の採用は本件判決において形式的なものに過ぎず、実質的には亀川清長裁判長以下の独断と偏見をもとに判断されたものと言い得るからである。
 まず判決は、被告小泉首相が「宗教法人」である「靖国神社」の「祭神である英霊」に対して「畏敬崇拝の心情」を示したことを理由に、主宰者や参拝の方法、目的にかかわらず本件参拝は宗教(つまり、神道)とのかかわり合いを持つものとしている。しかしこの判断方法は、「外形的側面のみにとらわれることなく」「社会通念にしたがって客観的に判断」すべしとした、自らが掲げた目的効果基準に反するものであり、自己矛盾していると言える。
 「畏敬」「崇拝」の語をそれぞれ辞書で引くと「畏敬=(崇高・偉大なものを)かしこまり敬うこと」「崇拝=あがめうやまうこと。宗教的対象を崇敬し、これに帰依する心的態度とその外的表現との総称。信仰」(いずれも広辞苑)となっている。しかし被告小泉首相は参拝の目的を「戦没者の追悼」「平和の祈念」としており、「畏敬」「崇拝」とも異なるわけであるから判決はこれらを混同していると言える。
 また、靖国神社には我が国を訪問した国賓、公賓、軍隊が参拝している。昭和36年にアルゼンチン大統領によって戦後初の外国元首公式参拝がなされ、昭和38年には仏海軍連取艦隊の艦長以下乗組員が戦後始めて外国軍隊として特別参拝している。このほかにも中華民国、ビルマ(現ミャンマー)、トルコ、タイ、ベトナムなどの政府高官の公式参拝、アメリカ、イタリア、ペルー、チリ、ブラジル、インドネシアなどの国々の軍隊の特別参拝も行なわれている。追悼のための参拝も「畏敬崇拝の心情を示す」ものであるとする判決の理論に従うなら、彼らの「表敬」「儀礼」のための参拝も「畏敬崇拝」に含まれることになり、「宗教とのかかわり合い」を持つものとされてしまう。だが、彼らが特に神道とかかわり合いを持ったというようには到底考えられないし、また彼らも参拝をそのようにはとらえていないだろう。
 こうして見ると、判決は極めてあいまいな基準で本件参拝を宗教と結び付けようとしており、そこに客観的な考慮が行なわれた痕跡を見出すことはできない。
 次に判決は、内閣内から強い反対意見があったことや、国民の間でも参拝に消極的な意見が少なくなかったことを理由に、本件参拝が「一般人の意識」において単に「戦没者の追悼」とはとらえられていない、としている。加えて、戦没者の追悼を行なう場所として宗教施設たる靖国神社は必ずしも適切ではないこと、戦没者の追悼は靖国神社への参拝以外でも為しうると指摘している。
 しかし、靖国神社は他の神社とは異なり宗教法人であるわけだが、それでもなお戦没者慰霊施設であることに変わりはないはずである。それは祭神が、一般神社のように想像上の神や伝説化された歴史上の人物ではなく、実在した「戦没者」という人間ひとりひとりであることからも明らかである(なお祭神について判決は軍人軍属、準軍属のみが合祀の対象とされているとしたが、これは単に不勉強ゆえの誤りである。また空襲の犠牲者が祀られていない云々とあるが、靖国神社の沿革、「なんらかの形で国のための任務を与えられていたか否か」という合祀判断基準に照らせば当然であろう。一般戦没者の慰霊は全国戦没者追悼式において行なわれている)。だからこそ、過去何度も靖国神社の国家護持を訴える声が上がり、今もなお遺族や国民の多数が戦没者に対する「国家による儀礼」としての公式参拝を望んできたわけである。そして一般人の本件参拝に対する客観的評価を調べるために様々なメディアで行なわれた世論調査の結果を見てみると、靖国神社の公式参拝に対する消極的意見は確かに「少なくなかった」が、多くもなかった。正確には、「ほぼ均衡している」あるいは「賛成のほうが微妙に多い」といったところであり、首相の靖国神社公式参拝を一般人が「単に戦没者の追悼という行事と評価している」とは言えないとする判決には無理を感じる。さらに言えば、資料を見たところ首相の靖国神社公式参拝に関する「内閣内から」の「強い反対意見」も特に無い。いったい判決が何を指して「強い反対意見」としているのか疑問である。
 さらに判決は、被告小泉首相の将来的に継続して参拝する強い意志で本件参拝が行なわれたことや靖国神社の参拝は当然である旨述べていること、本件参拝直後の8月15日には前年比2倍の参拝者が訪れ閉門時間が一時間延長されたことなどからすれば、本件参拝は靖国神社を援助、助長、促進したとしている。だが、それらがなぜ靖国神社の援助、助長、促進に結びつくのかが合理的な説明がなされていない。本件参拝で被告小泉首相が私費で支出した献花料は3万円と社会通念上の範囲であり、仮に今後も参拝が継続されたとしても将来的に支出される献花料は靖国神社を援助するまでの額にはならないであろう。また戦没者慰霊祭の日に靖国神社を参拝することは当然である旨述べても、それが国民に靖国神社の信仰や参拝を強制し、靖国神社の助長や促進につながっているとは当然考えられない。加えて、本件参拝直後の終戦記念日の参拝者は前年に比べ2倍の人数を記録したものの、小泉首相就任時からの靖国神社参拝問題に対する世論の盛り上がり、「歴史教科書を作る会」発足以来の歴史見直しの風潮といった世情を考えると、本件参拝が引き金となって参拝者が増加したとは言いがたく、これを以って靖国神社が援助、助長、促進されたとは言うことは出来ないと思われる。
 最後に判決は、「諸事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断」した結果、本件参拝は憲法の禁じる「宗教的活動」にあたり、よって本件参拝は違憲であると判断を下している。だが、その判断は上記のように極めて杜撰なものであり、社会通念にしたがって客観的に行なわれたとは到底言うことはできない。
(3)杜撰な判断の根源
なぜ、このような事態が起きるに至ったのであろうか。その根源は、本件参拝の違憲性を検討している箇所の冒頭に見ることが出来た。
ここで判決は、日本国憲法に政教分離規定が設けられたのは、大日本帝国憲法下において国家と神道が密接に結びつき神道に事実上国教としての地位が与えられ、その結果信教の自由が不完全なものにとどまった反省の観点からであると述べている。
 確かに、キリスト教や新興宗教に対して弾圧がなされたり神社への参拝が強制されたのは事実であり、反省しなければならない(もっとも満州事変以後神社参拝の強制は帝国憲法制定時でさえ想定されていなかった事態であり、それそのものが憲法を逸脱していたと言え、それを反省して憲法を起草する必要はなかったとも言える)ことではある。しかし、現行憲法が帝国憲法と異なり、無条件で信教の自由を保障し、かつその保障を確実にするために政教分離規定が設けられていること自体が「反省」と言えるのではないか。そして、国家神道は既に解体されているのである。
このような状況下で、国家と他宗教のかかわりについては比較的緩やかな分離が認められるのに、神道とのかかわりは一切禁止するという司法のやり方は「逆差別」であると言える。実際、政教一致の反省から政教分離が規定されている欧米各国において、過去に対する「反省」からカトリックに対してのみ厳しく接している事例は一切見られないのである。
 さらに言えば、一般に神社神道は「事実上」の国教とされているが、「法制度上」は単なる「公認教」であり、日本は「公認教制」国家であった。そして神道が「国家の祭祀」として保護を受けたのは事実であるが、あくまでも法的には「公認教制」である以上保護は限られ、布教活動を中心とする宗教活動を禁止した上でのことであったので、国家神道が絶大なる力を持ち、弊害をもたらしたかのような考え方は間違っている。ちなみに、国家の保護の下布教活動を大規模に展開したのはむしろ仏教、特に東西本願寺の浄土真宗だったのである(こう見ると、首相の靖国神社参拝に執拗に反対しているのが浄土真宗であることに何らかの関係性を感じずにはいられない)。
 このように、一般人はおろか裁判官までもが神道に対して誤解を抱いている状況の中で安易な「過去の反省」論が生まれ、それが今回の杜撰な憲法判断を生むことにつながったのだと思われる。

6.判決に見られる「司法のゆがみ」 ~結びにかえて~
 今回見た小泉首相靖国神社参拝訴訟福岡地裁判決は、まるで現在の日本外交のように、「過去の反省」に縛られ、正常な判断を欠いたものであった。
 そして、政教分離を扱うことを目的としたため取り上げなかったものの、今回の判決には「司法のゆがみ」をも見ることができる。
参拝は違憲であるものの被告側は賠償責任を負わないと判決したことで、参拝の合憲性を訴えている被告側を「事実上の」敗訴に追い込んだことである。被告側はもちろん「法的」には勝訴しているわけだから、控訴することは出来ず、首相の靖国神社参拝は違憲という結果のみが残ったのである。
 一方の原告側は、賠償金こそ得ることが出来なかったものの、「首相の靖国神社参拝は合憲」との司法判断を勝ち取ったのである。
 同様の手法は、岩手靖国訴訟仙台高裁判決にも見られるのだが、このような手法は本来決して行なわれてはならないことであろう。
 今回の訴訟で憲法判断を行ったことについて判決は、「異論もあり得るものとも考えられる」とした上で、しかし、「現行法の下においては、本件参拝のような憲法20条3項に反する行為がされた場合であっても、その違憲性のみを訴訟において確認し、又は行政訴訟によって是正する途もなく、原告らとしても違憲性の確認を求めるための手段としては損害賠償訴訟の形を借りるほかなかった」のであり、「裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、今後も同様の行為(首相の靖国参拝のこと:引用者注)が繰り返される可能性が高いというべきであり、当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え」たとしている。
 しかしながらこれは詭弁であり、福岡地裁亀川裁判長以下は、最高法規である憲法を無視したとさえ言える。
 日本が付随的違憲審査制度を採用していることは、数々の憲法解釈によって既に確立された理論であるにもかかわらず、一地裁がそれに物言いをつけ、勝手に憲法解釈を行ったのである。しかも、控訴を封じ、靖国神社参拝の憲法判断を上級審で行なう機会を永久に奪うことまでした。
 判決において、本件参拝を違憲とした根拠に「憲法上の問題及び国民の批判等があり得ることを十分に承知しつつ、あえて自己の信念あるいは政治的意図に基づいて行なった」ことをあげているわけだが、亀川裁判長以下はそれと全く同じことをしているのである。
 「法の番人」たる裁判官のこのような振る舞いが、司法に政治を持ち込み、ゆがみを生じさせる原因を作っているのである。
 このような判決は国民として断じて許せないものである。
 今後、このようなねじれた判決が二度と出ないことを祈って、このレポートの結びとしたい。


参考文献
政教分離とは何か―争点の解明―
・・・百地章 成文堂
憲法
・・・芦部信喜 岩波書店
Epistola de Tolerantia 寛容についての書簡
・・・J・ロック 平野耿訳 朝日出版社

靖国神社公式HP 
http://srd.yahoo.co.jp/PAGE=D/LOC=S/R=1/*-http://www.yasukuni.or.jp/
靖国神社関連年表
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yasukuni/nenpyo_2.htm
靖国問題の歩み
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yasukuninennpyou.htm
小泉首相の靖国神社参拝に関する資料集
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/%7Etamura/koizumiyasukuni.htm
靖国神社公式参拝に関する世論調査
http://news.livedoor.com/webapp/question/list?id=30
朝日新聞世論調査
http://www.asahi.com/special/shijiritsu/TKY200411290310.html

以上
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